香川県民であることを誇りに思える展示

「なぜ、瀬戸内芸術祭は香川県で開催されるのだろう?」と一度でも思ったことのある人、「香川県には何もない」と一度でも感じたことのある人に、会期中にこの展示会を見に行くことをお勧めする。

「心を豊かにするデザイン~讃岐モダンへのあゆみ~」
2019年9月14日(土)~11月4日(月・祝)
高松市歴史資料館(サンクリスタル高松)4F
高松市昭和町1丁目2-20

私たちにとって「当たり前」の風景は当たり前じゃなかったことに気づいてほしい。

丸亀で生まれ育ち、高松工芸高校を卒業した私にとって、鳥肌のたつ香川県の芸術・工芸の歴史を目の当たりにした。そういえば、どうして今まで知らなかったのだろう?知ろうとしなかったのだろう?

この展示を見ると、香川県が美と共に地域産業を発展させることの重要性に気づき、積極的にモノづくり、良いデザインが生まれる土壌づくりをしてきたことがよくわかる。

恥ずかしながら、私は知らなかったが、子供のころから「変わったファンキーな建物やなぁ」と思っていた高松市内の建物はすべてデザインイヤーで受賞した建物だったと知り驚きを隠せなかった。



1.工芸高校は最初からデザインの思想を工芸教育に加えるために作られた

2.フランク・ロイド・ライトが来日中にどうしても訪問したかった高松工芸高校

3.焼け野原になった高松に必要なのは美術館だ!と動いた美術工芸さぬきマインド

4.デザインと工芸技術はやっぱり切り離せない

5.まさか40手前で工芸高校の種が芽をだすなんて思わなかった

6.さいごに


工芸高校は最初からデザインの思想を工芸教育に加えるために作られた

高松工芸高校は、1894年に富山県工芸高校を富山県知事時代に開校した徳久恒範(とくひさ・つねのり)が、香川県知事になった折に、1898年に開校した学校。四国で初の工芸学校となった。両校の中身を作ったのが、納富介次郎(のうとみ・かいじろう)。彼はボヘミアで陶芸技術を学んだ、画家、工業デザイナーであり教育者。明治期に工芸教育にデザインの思想を取り入れた功績は大きいとされる。

富山県、香川県、熊本県、広島県の知事を歴任した徳久氏と画家・工業デザイナーの納富氏は、共に佐賀県生まれ。納富氏の「美術工芸の担い手を育てることが国を豊かにする」という考えに徳久氏が共感したことから、石川県、富山県、香川県に工芸学校ができるきっかけとなった。

では、たまたま香川県知事に徳久氏が就任したから、香川県に工芸学校ができたのか?というと、YESだし、NOだ。彼が県知事に就任していなければ、学校はできていなかっただろう。しかし、香川県に、江戸時代から続く漆芸などの伝統工芸があったからこそ、徳久氏は、香川県の産業振興には工芸学校が必要だと考えたのだ。

徳久氏が県知事に就任していても、この香川県に守るべき伝統工芸の技がなければ、私の母校は生まれていないし、徳久氏が県知事に就任していなければ、私の母校は生まれていない。

学校の開校準備に再び、徳久氏の新天地(香川県)に招聘されることになった納富氏。それまではあまり意識的に行われていなかった「デザイン」という考え方を香川県の工芸にもたらした。

私は、開校100年の時に在学していた生徒の1人。
資料を読んでいて、開校100年たった今も、開校当初の魂が根付いていたと感じた。
初代校長の納富氏の方針は「各科ともにデザイン画の授業が必要である」だったらしく相当時間数がデザイン画にあてられていたようだ。「機械を使用し諸種の政策を為すこと」と入学の手引にあり、近代化に対応し量産できるモノづくりを促していたようだ。

また、『70年のあゆみ 香川県立高松工芸高校』には、こんな記録ものこっている。

「先生には一流の名人肌の人が多かった。開校数年間は生徒全員が月謝免除だった。入学してもしばらくは普通科の授業がない科目もほうぼうあった。英語の時間に級長が担任の先生のところへ出向いて、”どうしましょう” とうかがいをたてると ”日本画の勉強をしとれ”といった調子。1、2回生の実科成績がよかったのもこんなことが原因だった」

当時から「普通科に重きをおかず専門分野に打ち込める自由な校風」だった、と資料にはある。

開校100年後の私がすごした学校生活を思い返す...。私は美術科だった、美術科は美大へ進学する準備を整える科なので、進学科だ...(入学してから知ったことだが)...。
だが、一般的な進学校と比べて、時間割を見れば、「普通科に重きをおかず...」と言われても仕方がない時間割ではあった。

専門科目は必ず少なくても2時間続きでセットされている。1日6限だとすると、専門科目が2つあれば、普通科の授業は2限しかない。

他の科のことは全然知らないけれど、きっと他の科もそんな感じなのだろう。こんな環境で育った卒業生が年間400人前後(時代によって多少変わる)ぽんぽん、ぽんぽん、世の中に出てくる香川県は、ある意味「異様」なはずだ。

最近では多くが県外に出てしまうのだろうが、そのまま就職する生徒だって少なくないはず。そんな数あまたの卒業生たちが地域に入っていくのだから、私たちが「当たり前」だと思っている風景は、実は当たり前ではないかもしれない。目に見えて分かりやすいものは少ないかもしれないが、確実に「考え方」には大きな影響を与えているはずだ。

実際、今の仕事についてからも、現場や取引企業、クライアントとして卒業生に出くわすことは多々ある。


フランク・ロイド・ライトが来日中にどうしても訪問したかった高松工芸高校

フランク・ロイド・ライトは、近代建築三大巨匠の1人。日本では帝国ホテルなどを手掛けた。

1905年。ライトは工芸学校の視察に来日していた。その来日期間はたった2ヶ月。
当時2代目校長を務めていた黒木氏の美術教育に興味をもっていて、どうしても、滞在中に訪れたいと、やってきたようだ。

その時のライトが工芸学校の印象を書き記したテキストや撮影した風景が残っている。

その一部が展示されている。さらにその一部を抜粋すると...

「校長の黒木氏は、日本において美術がこれまで決して工芸と分離されることがなかったことを誇りとしており、そのことは彼にとって一番の競争相手である欧米美術学校の側においても、充分考察に値する課題になりうる」

「日本の芸術家は、私がこれまで耳にたこができるほど聞かされてきた構図法の基礎を思いのままに全部無視しながら、魅力的な作品を生み出す」

「見事な構図を生み出す日本人の平衡感覚は、木々や草花に見られる平衡やバランスをじっくり観察することを通して、彼らに生来備わっているものだと考える」

...このようなことが書かれている。

工芸学校については、みなが最も好きなことに打ち込み、楽しんでいて、くつろいで集まる大きな家族みたいだ...といったことが書かれていた。

焼け野原になった高松に必要なのは美術館だ!と動いた美術工芸さぬきマインド

今回の展示で最も鳥肌が立ったのは、戦後焼け野原になった高松市街地に「今」必要なものは「美術館だ!」と、食べることもままならない時代にこれが実現したという記録を見たこと。

県展などの会場に使われていた栗林公園商工奨励会館や高松三越もまだまだ展示条件が整っていなかった。作家たちは協力して美術館建設に動き始めるのだが、そのころ、高松市が「観光高松大博覧会」を開催することになった。

国内外に広い人脈を持つ、高松市生まれ、丸亀育ちの現代美術家・猪熊弦一郎もこの動きに大いに賛成し、設計に友人の山口文象を紹介。

そんな追い風もありつつ、作家や市民の積極的な募金活動などにより、焼け野原となった高松市に美術館ができた。

にわかには信じがたいだろうが、その展示を見て、涙がこぼれそうになった。

1800年代の終わりに、納富氏と徳久氏が植えた美術工芸の種が、1900年代半ばには、壁を這うツタのように広く育っていったことを感じたからだ。

「美術で腹は膨れない!」という人もそれはそれは多くいただろう。この話を今きいて、美談だと思わない人もいるだろう。しかし、「美術で腹は膨れない」は必ずしもそうではなない。

美術館の建設に携わった人間の数を想像してほしい。有名な建築の話になると、「言い出しっぺ」「資金を出した人」「設計した人」の名前くらいしか出てこない。だけど、建物はその人たちだけではいつまで経っても、図面でしかない。

美術館を建てたことで、腹がいくばくか膨れた人はたくさんいるはずだ。建物には基礎がいる。写真を見る限り、コンクリート造なので、型枠がいる。それぞれの材料を売ったところがある、作るのに駆り出された職人もいる。

この美術館が竣工したことで、無事に開催された「観光高松大博覧会」で膨れた腹だってあるだろう。

この美術館が建設されたことで、香川県の美術文化は進展していくことになったそうだ。

戦後初の公立美術館を完成させてしまった、香川県民のマインドセット。素晴らしいじゃない!?

あまり、強調されていないけれど、美術館ができるきっかけとなった「作品を展示する場所がない」という作家の声。これにすこし思いをはせてもらいたい。戦時中も作品作りを続けていた人々がいて、それを世の中に見てもらうことの重要性を把握していた一定数の作家が香川県にいたから、美術館ができた。これって、すごいことだと思う。

のんきだ、と言ってしまえば、それまでだが、讃岐弁でいうところの「がいな」ともいえる。「のんきでがいなヤツ」は言いくるめられることがない。淡々と物事を成し遂げてしまう。しかし、戦時中に作品を作ることは、ただのんきでは出来なかったはずだ。

それらの流れが、今の瀬戸内芸術祭につながっていったと考えるのは、とても自然なことのように思える。


デザインと工芸技術はやっぱり、切り離せない

デザインという言葉もアートという言葉も外来語で、実は日本語の「これ!」と100%シンクロできる言葉はない。デザインという言葉に含まれる範囲の中に「意匠」はあるが、「意匠」がデザインという言葉で表せられる全てを表現することはできない。アートという言葉対「芸術」も同様だ。

実用性があり、さらに見た目にも美しいものを「デザイン」するとしよう。
「見た目」と「機能」を考えることをこの場合「デザインする」と表現する。その良し悪しは置いておいて、その作業は絵を描けて、言葉で説明することができれば誰にだってできる。少し乱暴な言い方かもしれないが。だから、3歳児以上なら、できる。

しかし、それを「実際のもの」にするのはどうだ?3歳児以上の誰にでもできるものではない。ものを作る技術を持った人、それを作る材料と道具を持っている人でなければ無理だ。デザインしたものを作るために必要な技術を持っているのは伝統工芸品を作ってきた職人さんだ!ということも多々ある。伝統工芸に限らず「職人」と呼ばれる人の技術と材料の目利きが不可欠になる。

では、その技術を使って新しい用途や見た目のものを作ろう!となったとき、その技術や工程、材料の特性を知っていなくては、そもそも本当の意味での「デザイン」はできない。そして、お願いをする職人さん自身のマインドセットも大事だ。「うちは100年間、これしか作ってきてないから、伝統だから、これしかやらない」という職人さんとは組めない。

そもそも工芸品ってなんだ?
工芸品とは、「実用品に芸術的な意匠を施し、機能性と美術的な美しさを融合させた工作物のこと」だ。「実用的」でなくては意味がない。

100年前の人にとって生活の中で「実用的」だったものが、必ずしも現代の私たちにもそうだとは言えない。

その技を使い、「今」と「これから」の人々に求められているものはなんだ?を考えるのが伝統の技を絶滅させない、今必要な動きだと私は強く感じる。そのためには、デザインと工芸技術はコインの裏と表、車輪の両側の輪として歩む必要がある。

その種が香川県には、120年も前に植えられていた。その種は今、香川県の私たちの経済活動や生活の中で、どのように育ってきただろう?

私は瀬戸内芸術祭がその種の実だとは思わない。


まさか40手前で工芸高校の種が芽をだすなんて思わなかった

今回、「心を豊かにするデザインー讃岐モダンへのあゆみー」展を見に行ったのは、今準備をしているある事業の研鑽のためだった。

先輩や後輩、同級生を見ていると、工芸生でしたと言うのも憚られる程度の出来だった私。自分の本当の意味の制作活動も日々の生活に追われてとんとやっていない。そのための思考を転がす時間もとれない。そんなモヤモヤしている卒業生だったわけだが。

今回の展示と私が今取り組んでいる事業があまりにも、合致していて、驚いた。

そうか...もしかしたら...私は作り手になるために、あの学校に行ったのではないのかもしれない...。資料の言葉を借りるなら「普通科目をないがしろにしてでも...」ものづくりを相当な時間を割いて学ぶ異様な環境で最も感受性の高い時期を過ごした人間が持っている独特の視点はあるかもしれない。

以前、恩師が出展しているグループ展を訪れて、とても面白い展覧会だったので、それをブログ記事にしたことがあった。その記事を見つけた恩師が「作家側では上手く言葉にできないことを教え子が上手く言葉で表現してくれた」と紹介してくれたことがある。

お世辞にも出来のよい美術科生ではなかったけれど、しっかり、あの学校で、創設者の思いは根付いていたのだろう。

今、私が準備をしていることは、まさに、初代校長納富氏の思いとリンクするところがあった。

「あぁ、きっと間違っていない」そんな後押しをしてもらったようだった。


さいごに

美術や工芸、芸術と自分はなんのかかわりもないし、美術展に行っても何がなんだかわからないと思っている人も多いだろう。

しかし、人間の脳というのは不思議なもので、私たちが覚えていなくても、視界に入ったものは全て記憶しているそうだ。それが無意識に積み重なって私たちそれぞれの「センス」や「価値観」、「好み」に反映される。

晴れた日の空は青い。言葉にすれば、日本なら全国どこへ行ったってそうだ。
しかし、その「青色」は、どの土地で育ったかで微妙に違うのをご存じだろうか?その土地にさす太陽光の具合、その土地の湿度、どんな海に面しているか、いないかなどで空の青色は変わる。

空の色同様、建物や分からないなりに見に行った芸術作品、工芸品などが、私たち1人ひとりの感覚を養っている。

とすれば、知らずしらずのうちに、香川県民は幼いころから、美しいもの当時最新鋭だったものを視界に入れて育ってきた確率は高い。

なぜ、美しいと感じるか、理由を言葉で説明できる必要はない。

ただ、昨日以上にこれから、「美しさ」を感じるかどうかに意識を向けてみてほしい。
きっと、私たち香川県民には、その素養が十分にある。